2015年07月05日

本田 宗一郎

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日本の実業家、技術者。
本田技研工業(ホンダ)の創業者。

乗り物が大好きな少年
 幼少期に近所にやってきた自動車に夢中になり、路面に落ちたオイルの匂いまで嗅いでいた。
 そして、いずれ自分の手で自動車を作ってやろうと思い立つ。
 航空ショーがあれば学校をサボり、入場料が無くても木にのぼって飛行機を観察していた。

偽造判子
 小学校の時、成績が悪かったため偽造判子を作り親に見せた事にしていた。
 やがて噂が広まり級友にも偽造判子を作るが鏡文字になっていたため簡単にバレる。
 本田の苗字だけが左右対称だったためバレなかったとか。

丁稚奉公
 15歳になると進学せずに自動車修理工場のアート商会へ丁稚奉公。
 勉強熱心で真面目に働いた。
 その後、アート商会からのれん分けの形で独立。
 順調に会社の規模を大きくする。
 
人間休業
 第二次世界大戦が終わると、人間休業と宣言し、一年間仕事をしなかった。
 土地や株を売却した資金で酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作っていたらしい。
 しかし、この時期に妻の自転車にエンジンを付けたら買出しが楽になると思いつき、オートバイの研究をするキッカケになる。

本田技術研究所設立
 人間休業期間が終わると、浜松市に本田技術研究所を設立。
 39歳だった。
 当初は従業員20名程度だったが、藤沢武夫の力もあり、世界のHONDAへ。

藤沢武夫
 会社の経営は基本的に藤沢武夫に任せていた。
 本田は社員も実印も見たことが無かったらしい。
 「モノ作りは本田、カネの工面は藤沢」と役割分担を決めたらしく、本田は「藤沢がいなかったら会社はとっくに潰れていた」と言い、藤沢も「本田がいなかったらここまで会社は大きくならなかった」と言っている。

自動車レース
 アート商会で丁稚奉公していた時期に自動車レースで優勝している。
 1936年の多摩川第1回自動車競技大会では浜松号で出場たが、転倒し、車から放り出され、死にかける。
 イギリスのマン島で毎年行われるオートバイのレースにも挑戦し、何年にもわたる研究の末、昭和36年には全クラスで完全優勝を果たした。

F1参戦
 ホンダが自動車生産を始めると、F‐1にも参加すると宣言。
 当時はヨーロッパの自動車が断トツで早く、日本の自動車メーカーはどこも参加していなかったが、3年後の昭和40年には初優勝を飾っている。

安全第一
 社員が会社で一番高価な機械を壊してしまった時には、まず社員の体を心配した。
 とんでもない失敗をしてしまったと青ざめる社員に「機械は直せばいい。でも、人は手や足を切り落としてしまったら、元には戻らない。人にケガがなかったのが一番だ」と言ったとか。
 工場に視察に行った際には、若い作業員がポケットに手を突っ込んで歩いている姿を見つけ、「危ないだろ!」と注意。
 その後、作業着からポケットが無くなった。

夜遊び好き
 夜遊びが好きで、酔っ払ったまま芸者を乗せて運転して車ごと天竜川に飛び込んでしまった事もあるらしい。

パワハラ?
 従業員からはオヤジと呼ばれていた。
 仕事に関しては非常に厳しく、怒るときには工具や灰皿で殴ったりもしていた。
 ただ、激怒した後はすぐに反省。
 愛はあったらしく泣きながら殴っていた事もあるらしい。

ツナギは正装
 皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際には「技術者の正装とは真っ白なツナギだ」と言い、作業着で出席しようとしたらしい。
 しかし、周囲に止められてしまい、最終的には燕尾服で出席。

台湾と韓国
 あるインタビューで「ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところ」を問われ、良いほうを「台湾」、悪いほうを「韓国」と答えている。
 理由はというと、台湾では「こうやって自分たちが仕事をやれるのは本田さんのお陰です」と言って丁重に扱われた一方、韓国の工場ではバイクの作り方を教え、一通りできるようになったら「帰ってくれ」と言われたかららしい。

ラーメン買占め
 ラーメン屋のチャルメラの音が集中力の妨げになったため、ラーメンを買い占めて黙らせた事がある。

警備員とのエピソード
 鈴鹿サーキットで警備員に通行証求められるが、持ってない事に気づく。
 運転手は「関係者だから通せ」と言うが、本田宗一郎は大人しく引き返した。
 後で警備員も相手が本田宗一郎と分かり警備会社は騒然となるが、「あなたの様なきちんとした方が警備してくださっている事を心強く思います」という手紙が届いた。

会社は自分のものではない
 株式会社なのに本田という名前をつけたために個人企業の様に思われると、後悔していたらしい。
 同じ様に会社は個人の持ち物では無いという考えから、身内も入社させなかった。

タイヤはアクセサリー
 イギリスに訪れた際、滑らない様に非対称に溝が彫ってあるタイヤを譲り受けた。
 日本で研究しようと持ち帰ろうとするが、飛行機で重量オーバーだと言われた。
 本田はタイヤをアクセサリーだと言い張って、首にかけたまま機内に持ち込み帰国したらしい。

アイルトン・セナ
 1990年のFIA表彰式で特別功労賞の表彰を受けた本田宗一郎は、「セナ君、おめでとう。来年もナンバーワンのエンジン作るよ」と言い、ホンダエンジンを崇拝していたセナは感極まって涙した。
 この時にタキシード姿で撮った写真が、二人にとって生涯最後のツーショットとなる.

120%の良品
 常に120%の良品を目指していた。
 100%ではなく120%である理由は、「人間のすることである以上必ずミスはあり、例え99%の完成度でも、その残り1%の不良品を買ってしまった客にとっては、それは1%ではなくて100%である。そのため、全てのお客様に喜んでもらうには100%ではなく120%を目指さなければならない」、という考えがあったかららしい。
 
井深大
 ソニーの井深大とは同じ技術者という事もあり、大親友。
 手紙でのやり取りも頻繁に行い、文化事業などの役員も互いに推薦し合って務めた。

突然の社長退任
 従業員の「自分達は会社のためではなく、社会のためにやっているのだ」という言葉に、いつのまにか自分の発想が企業本位になっていると感じ、自分の時代は終わったとして社長を退任。

引退後
 65歳で引退した後は全国各地を行脚し、販売店や工場で働く従業員一人ひとりにお礼を言って回った。
 作業員から油まみれの手で握手を求められても、「この油まみれの手が良いんだ」と言い、しっかりと握手したというエピソードもある。

素晴らしい人生
 1991年8月5日、死去。
 84歳だった。
 葬儀は、近親者のみで行い、位牌もなければ、僧の読経も無い。
 自動車を作っている会社だから、社葬のために渋滞を起こしてはいけないとの理由で社葬も行われなかった。
 生前、「俺が素晴らしい人生を送ることができたのも、お客様やお取引先のみなさん、社会のみなさん、従業員のみなさんのおかげ。俺が死んだら世界中の新聞に「ありがとうございました」という感謝の気持ちを掲載してほしいと言っていた。


posted by 偉人マニア at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 経営者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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